昔から仏教とは何か、人間にとって救いとは何か?を僕なりに真剣に考えてきた。
遠藤周作の小説「沈黙」を読んで、救済なんてないのが現実だと悟り人生は自力で切り開くしかないし、切り開けないくらいの困難があったらそれに従うしかない。との諦観を持ったのも懐かしい思い出である。

副島先生の著作はそのときのもやもやした思いを思い出させると同時に、痛快に仏教やキリスト教の偽善を暴いてくれる。というと言い過ぎだろうか?

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副島隆彦著の仏教論、『隠された歴史:そもそも仏教とは何ものか?』(PHP研究所)の読みどころを解説します。2012年8月12日

 副島隆彦を囲む会の中田安彦です。

 8月13日には全国では日本人は帰省して実家の墓参りに行きます。お墓があるのはお寺で、お寺というのは仏教の施設であるとみなが思っている。仏教というのは「お釈迦様の教え」だと思われているから、日本人が仏教だと思って唱えている「ナンマイダ」とか「般若心経」もお釈迦様の教えだとみな思っている。

 しかし、副島隆彦著の『隠された歴史:そもそも仏教とは何ものか?』(PHP研究所)によると、日本人がお釈迦様=ブッダの教えだと思っていた内容は殆ど、後の時代に他の人物が勝手に創りだしたものだという。しかも、禅宗以外の日本に伝来した大乗仏教は、キリスト教の救済思想の露骨に影響を受けているのだという。

 そもそも、もともとのブッダの教え=思想は神=天による「人類の救済」などはないというものであり、この考え方が小乗仏教=上座部仏教である。それ以外の教えはキリスト教の中で異端とされたアリウス派がアジアに伝わってきて。ガンダーラ地方で大乗仏教となったという。親鸞上人(しんらんしょうにん)が始めた浄土宗は、キリスト教の救済思想であり、後にルターが唱えたような、救済するかは「神によって予め決められている」という予定説と同じような「悪人正機説」(あくにんしょうきせつ)を唱えたものである。したがって、ブッダの思想とは別のものであるという。

 要するに、紀元後2世紀に仏教の中にキリスト教の教えが紛れ込んだとするのが、副島仏教論の中核であり、その論証が本書では丹念に行われている。

 だが、本書の導入部では以下のように、日本の仏教の寺にある観音菩薩像のモデルは、イエス・キリストの妻であるとされたマグダラのマリアであると書かれている。これは現在のキリスト教(ローマ・カトリック)では異端とされている考え方で、観音菩薩はカトリックによって異端とされた教派の信仰がアジアにも伝来し、それが仏教の核を作っていったということである。何れにしても、ブッダ本人の教えではないということである。

 『隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?』の10ページから、本書の冒頭部分を転載します

(転載貼り付け開始)

第一章 お釈迦様の教えはどこへ行ったのか

<日本人がうっかり信じ込んでいること>

 この2つの有名な写真を見てください。日本で一番美しい女性の仏像だ。これらは女だ。この2人の女神は、一体何者か? どこから来たのですか? その秘密を私はこの本一冊で追求する。

奈良の中宮寺の如意輪観音(にょいりんかんのん)像(国宝)
「1324」 

京都の広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像(はんかしゅいぞう)(国宝)
 
 このものすごく有名な中宮寺(ちゅうぐうじ)と広隆寺(こうりゅうじ)の2つの菩薩像(ヽヽヽ)を見て、これらはお釈迦(しゃか)様とは別人なのだと、ハッキリと言える日本人がどれだけいるか。すべてをひっくるめて、ひとまとめに仏像(ヽヽ)だと私たちは勝手に安易に、いい加減に信じ込んできた。だが、仏像とは本来、仏(ほとけ、ゴータマ・ブッダ)の像のことである。それ以外は仏さまではない。この事実に私は強くこだわる。お釈迦様、即ち、ゴータマ・ブッダの像だけが仏(の)像でなければならない。このように断言して、私は仏教研究家や仏僧にケンカを売る。しかしどうせこのケンカを誰も買ってくれない。

「そんなことは、どうでもいいじゃないか。勝手にこだわっていろ」と言われるだろう。

 だが私は、自分の主張を貫く。ここに仏様(ゴーダマ・ブッダ)ではない3人の女神がいる。それは①阿弥陀如来、②観音菩薩、③弥勒(みろく)菩薩の3人である。私は、これらの事実を細かく調べた。そして、自分なりの本当の仏教(ブディズム)への理解とする。この3人の「仏様」は、どう見ても女だ。どう考えても女だ。

<マグダラのマリア?>

 これらの仏像、すなわち阿弥陀、観音、弥勒の像とされるものを見て男だと思う人はいないはずだ。どう見ても女である。これらの「仏像」は女性の像であり、すべて女の神様である。誰がどう見てもそう見える。たったこの1点の真実を、誰もはっきり言おうとしない。これらは「変性男子(へんじょうなんし)」だとか、「男でも女でもない中性なのです」と京都の有名な観光寺(かんこうでら)の解説文には必ず書いてある。みんな嘘つきだ。日本人は、この嘘を1000年間もつき続けてきた。

 この3人の女神(ヽヽ)の像は、本当の本当は、すべてイエス・キリストの奥様であった(マグダラの)マリア像の変形である。これが私がこの書で貫く大きな一本の主張である。絶対に証明してみせる。どんな反論にも耐えてみせる。すなわち「阿弥陀如来、観音菩薩、弥勒菩薩は、マリア様である」説の出現である。この私の主張と似た論文が昔から仏教界にあるらしい。誰か後で教えてほしい。

 この中宮寺の如意輪観音像は、2011年のJR東海の「うましうるわし奈良」というキャンペーンで使われて、どこの駅でもよく見かけた。「美しいひとが奈良にいる。」と書いてあった。この“美しいひと”とは何者ですか?

 私はこの美術作品が、日本における最高傑作だと思うし、皆も思っている。皆がこの仏像を本気で見つめて、「仏教美術の最高傑作だ」と口を揃える。

 ところが、この如意輪観音(にょいりんかんのん)(観世音(かんぜおん))菩薩は、平安時代以降の名称である。当初は弥勒菩薩像として造立されたらしい。どうにでもなるのである。弥勒菩薩と観音菩薩の区別をつけようとすらしない。今の中宮寺の仏僧たちであってもそうなのだ。仏教美術家や仏教学者たちも、どっちでもいいと思うのだろう。

 そして、もう一方の広隆寺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)半跏思惟像(はんかしゅいぞう)も国宝であり、この姿も明らかに女性だ。ただし、乳房があまり膨らんでいるように見えない。これも日本仏教美術の最高傑作である。これら以外では、いわゆる美少年の顔をした阿修羅(あしゅら)像(奈良・興福寺(こうふくじ))が有名である。だが、私は、これらが奈良・平安時代に造られて、現在まで伝わっていると言われても簡単には信じない。私は、いろいろなことを疑う人間である。これらが1300年もずっと保存され伝えられてきたとは思えない。そして、この他に阿弥陀如来という仏像がある。これも本当は女神様で、女性の像である。

 だから私はこれらの女神像は、キリスト教が中国を経て日本にまで伝わったマグダラのマリア像であると主張する。

(転載貼り付け終わり)

 このように、本書の冒頭では、仏教の仏像は実は女神像であり、そのもとはキリスト教の中でカトリック教会によって異端派と決めつけられた宗派が信仰した、「マグダラのマリア」であると述べている。そのことを切り口・出発点にして、日本で行われている葬式仏教が、以下にブッダ本人の教えからはかけ離れているかを詳しく説明している。

 事実に即して言えば、「仏陀の教えのみ」が重要であるとすれば、輪廻転生を唱えた部分はヒンズー教の教えであるし、観音様を拝んで救済を求めるという宗派はブッダの教え=本来の仏教ではない。本来の仏教ではない。それ以外の結論は確かにない。

 私は恥ずかしながら、そもそも仏教の既存の宗派の教えの違いについて詳しく勉強したことがなかったので、この本を通じて様々な宗派の違いを知った。

 しかし、キリスト教がイエス・キリストの教えを離れた形で、イエスの弟子たちが様々な、複雑な教義をでっち上げて、巨大教団を作っていったということは理解できる。と、同様に、仏教においても、同じことが起きたことも納得できる。

 ブッダの死後だいぶたってから、龍樹(ナーガルジュナ)という異教徒が出てきたり、中国の仏僧がでてきたりして、それらの僧侶たちが、勝手にブッダの名前を借りて自分の独自の教義をでっち上げてみたり、既存の宗教(ゾロアスター教、キリスト教、ヒンズー教)からつまみ食いして、仏陀の教えとは異なるものをでっち上げて権力を拡大していった、のだろうと言われても、「やっぱりそうですか、どの宗教も同じなんですね」という結論になる。

 仏陀の教えは「人は死ねば無になるし、救済など存在しない」ということだから、それでは必死に救済を求める民衆の欲望には答えられないので、教団を大規模に維持できない。そこでどんどん仏陀の教えから離れてしまったとしても、教団という組織の維持のためには本来は仏陀の教えとは関係ない、民衆救済を教義に組み入れていったのだろう。

 いきなり話は飛ぶ。本書の結論として、以下のように書かれている。詳しい仏教論の読み解きは本書を買ってください。結論だけを以下に転載する。

(転載開始)

 さて、本書の結論である。以上のことから、キリスト教が北インドで仏教に入り込んだのである。入り込んだというより、西暦150年に作りなおしたのだ。それを大乗仏教(龍樹・ナーガルジュナが創作者)と言う。だから、ブッダ(釈迦)をそっちのけにして、阿弥陀さま、観音さま、弥勒菩薩の方を信仰するようになった。雲の中からパーっと光が差し込んで、従者たちを引き連れて地上に降りてきて、人々を助ける姿がある。これはドイツのワーグナーの楽劇のブリューンヒルデという太った女神が、地上に白馬に乗って家来たちの軍勢を連れてくる姿と全く同じだ。

 新約聖書には、都エルサレムに入ったイエスは弟子のイスカリオテのユダ
(Judas Iscariot)の裏切りを受けてローマ兵たちに逮捕された。ローマ帝国から派遣レされていた総督(コンサル)ピラトに判決で死刑が決まり、ゴルゴタの丘で十字架に磔(はりつけ)にされたと書かれている。このゴルゴタの丘というのは、処刑場があった場所ではなくて、エルサレムの大金持ちの住居でキリストを支持していた人物で、その敷地内に十字架が立てられて処刑されたらしい。
 
 イエスの遺体を受け取りに行ったのは、三人のマリアで、イエスの死体の受け取りを男の弟子がやると殺される恐れがあった。だから女たちが行った。
 これがあのミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1475-1564)の傑作『サンピエトロ(大聖堂)のピエタ』という彫刻である。ピエタ(Pieta,pietete)とは、自分の命を懸けて、死をも恐れず遺体を受け取りにゆく献身、のことを意味する。今もヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の中の、入ってすぐ右に飾られていて、私たち世界中からの観光客が見ることができる。このミケランジェロの初期のピエタ像が、おそらくこの地上で一番美しい最高級の芸術作品だ。ミケランジェロ26歳の作品という。イエスの死体を膝(ひざ)の上で抱きかかえている、妻のマグダラのマリアの壮絶な姿である。決して母親のマリアではない。このことを、今こそ私たちは分かるべきなのである。多くの秘密が隠されたままになっている。今こそ解き明かされなければならない。それが人間の解放(ルネサンス)だ。

ミケランジェロの『サン・ピエトロのピエタ』これが人類の最高傑作である。イエスの妻のマグダラのマリアがイエスの遺体を抱きかかえている。

 そして、最後に敢えて書く。現実の人間世界は、ついに救済はなかった。人間(人類)は救済されなかったのである。このことが非常に重要である。だが、それでも救済されたい民衆は、世界中で今もマリアさまにすがりつく。そしてそれが私たちのアジアでは観音さま、阿弥陀さま、弥勒菩薩になったのである。

(転載終わり)

 以上のように、副島隆彦の仏教論は、最終的にはキリスト教の源流をたどる旅になります。この6月に副島先生はイタリア訪問をしてきたそうです。その次回作も準備中とのことです。

 副島先生の師匠の一人である故・小室直樹先生は、『小室直樹の宗教原論』(徳間書店)という本を残しています。副島隆彦の仏教論、キリスト教論、そしてイスラム教論も期待したいものです。

 最後に本書のあとがきを転載します。

(転載開始)

あとがき

私は、高校1年生だったときに、書店で買った岩波文庫の『般若心経』を訳も分からず読み、やがてその262文字を諳(そら)んじた。何十回か声に出して読んだ。きっと、ここに仏教の大きな真理が書かれている筈(はず)だ、と16歳の私は思いこんだ。あれから長い歳月が流れた。人間世界の真理とは何か。仏教(ゴータマ・ブッダの教え、思想)とは何だったのか。

 私が『般若心経』を諳んじてから43年が経つ。来年には還暦(60歳)が来る。この間に、私はどれだけの成長を遂げたか。私は何かの真理(truth(トルース))を見つけたか。あるいは無駄に年齢を重ねただけであったか。日本国の宗教である仏教は私に何の真理を与えたか。

 私は自覚的に生きているからこそ、いよいよ己れの人生の43年分の決済(けっさい)をしなければならない時期に来たのだと感じた。還暦とは、60歳で折り返して赤ちゃんに戻る。だから“赤いちゃんちゃんこ”を着て祝う、ということではない。古来、60歳とは、もう死んでもいい、さっさと死ぬべきだ、という齢(とし)のことである。

 私は、こういう真理なら自力で知ってきた。

 今はもう、ついに「葬式は要らない」「戒名(かいみょう)も要らない」「坊主のお経も要らない」「お墓も要らない」、「灰と骨は野山に撒いてくれ」という時代である。そういう本がたくさん出版されて、良い売れ行きをしている。

 人間(人類)は、ついにここまで来た。本当のお釈迦さま(ゴーダマ・ブッダ)は「出家者(仏僧)は死にかかわるな。葬式にかかわるな」と言ったのだ。それなのに葬式仏教(ヽヽヽヽ)となりはてた。龍樹(ナーガルジュナ)によって、大乗仏教(マハーヤーナ)が紀元150年頃に作られておよそ2000年が経つ。仏教もまた、他の多くの思想たちと同じく、多くのバカらしいことを山ほど積み上げたのだ。このことが私によく分かった。それらのすべてを書いた。

私はこの本で、仏教とは何か、仏教の全体像とは何か、に挑みかかり、私なりの答えを出した。これらは私の勝手な思いつきではない。だから証拠をひとつひとつ挙げた。

私にとっての『般若心経』との43年間の決裁と決済と血債がこれでついた。

私は、『般若心経』の冒頭に出てくる「観自在菩薩(かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ) 照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく)」(日本語訳。観音さまは、波羅蜜多の行(ぎょう)を深く行った。そうしたら、受想行識意(じゅそうぎょうしきい)の五蘊(ごうん)はすべて空(くう)であると照見した<はっきりと分かった>。そして、このとき、観音さまはこの世の一切の苦役を乗り越えることができました)に込められた意味がようやく分かった。私には一切の嘘はない。嘘などついている暇がない。

『般若心経』の冒頭に出てくる観自在菩薩(観音さま)とは何者か。そして、阿弥陀如来とは何者か。弥勒(みろく)菩薩とは何者か。この3人の女神たちは、一体、何者であり、どこで生まれたのか。彼女たちは、明らかにお釈迦さま(ゴーダマ・ブッダ)とは別人である。たったこれだけの謎を解くために1冊の本を書いた。

日本人にとっての仏教(の長い歴史)とは何であったのか、の謎に私は答えを出した。一切の虚偽(フォールス)と偽善(ヒポクリシー)を私は峻拒(しゅんきょ)する。

かれこれ2年に亘って、この本が出来るまで我慢強く待ってくださったPHP研究所の大久保龍也氏に深く感謝申し上げます。

2012年7月 副島隆彦

(転載終わり)

 以上です。本書『隠された歴史:そもそも仏教とは何ものか?』の応援・愛読をよろしくお願いします。

中田安彦拝
 

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