何かと世間を騒がせてくれた田中氏の著作を読んでみた。

本の内容はamazon.co.jpによると以下のあらすじだ。

商品の説明

第146回(平成23年度下半期) 芥川賞受賞

内容紹介

第146回芥川賞受賞作「共喰い」――昭和63年。17歳の遠馬は、怪しげな仕事をしている父とその愛人・琴子さんの三人で川辺の町に暮らしていた。別れた母も近くに住んでおり、川で釣ったウナギを母にさばいてもらう距離にいる。日常的に父の乱暴な性交場面を目の当たりにして、嫌悪感を募らせながらも、自分にも父の血が流れていることを感じている。同じ学校の会田千種と覚えたばかりの性交にのめりこんでいくが、父と同じ暴力的なセックスを試そうとしてケンカをしてしまう。一方、台風が近づき、町が水にのまれる中、父との子を身ごもったまま逃げるように愛人は家を出てしまった。怒った父は、遠馬と仲直りをしようと森の中で遠馬を待つ千種のもとに忍び寄っていく....。川辺の町で起こる、逃げ場のない血と性の臭いがたちこめる濃密な物語。
第144回芥川賞候補作「第三紀層の魚」も同時収録。
もともと文学部志望だった私としてはエログロな表現が目に付いてしまう作品だった。かつてのような思想や骨太な生き方を描く作品が芥川賞にならなくなって随分経つと感じる。前回の西村賢太氏にも感じたが、私小説という分野自体がもう必要ない気さえする。
私小説は平和で安定した世の中において、通常の価値観を破壊するような価値観を描くことによってインパクトを与えてきた。かつての太宰治に代表される堕落的思想だ。文学者というものは大抵がこの社会の価値観を破壊する考え方、新しい生き方を何らかの形で提案してきたと思う。
今回田中氏の芥川賞を石原都知事が酷評し、選考委員から外れてしまったのも結局こういった私小説が新しい価値観を生むことが出来なくなり小さな作者自身の生い立ちや貧困、性の衝動といったすでに書きつくされ共感を生まない作品ばかりになってきてるからだろう。
貧困、性の衝動、社会に対する不満、不信、それらの表現はすでにテレビや映画の世界でも多く表現されてきており、日本国民の多くはそれを当たり前と感じているのではないだろうか。
今の大学生は卒業後の進路も決まらない生徒が多くなり、いずれ来るギリシアのような国家の破産まで視野に入れて感じている気がする。
そこにあるのは田中氏の描いた貧困の少年でもなく、父親に自分の彼女を犯される性の衝動でもない。こんなテーマは安物のAVで沢山表現されている。今の現状で未来を思った時に出てくるのは国家破産であったり、デモ隊と警察の衝突、食糧難の生活だったり、資本主義の終わりなどのもっとドラステイックな社会の変化だろう。
文学がもっと大きな力を持つのはいつだろうか?かつての文学全盛期はどこに行ったのか?
三島由紀夫の自殺がひとつの時代の変わり目だったと思う。そのご、村上龍が芥川賞をとった頃から私は文学に対する憧れがなくなっていった。そして私達の青春時代に共感を惜しまなかった村上春樹が芥川賞とは無縁だったことも日本文学に失望を感じた。
その後村上春樹は海外で生活を始めとうとうノーベル賞の候補に挙がっているが、日本の文学界はそれを無視している。
これこそ日本の文学界が私小説の中に埋没し、表現者の技術的側面しか確立できていない点だと思う。