上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す

医師として働くようになる前、高校生時代にこの言葉を聞いた。
中国の唐代の名医、孫思の著書『千金方』巻一「診候」に書か
れている。もともとは西暦454年から473年にかけて書かれた、
中国の陳延之の著書『小品方』にある、

「上医医国、中医医民、下医医病」から来た言葉といわれている。

「上医は国をいやし、中医は人をいやし、下医は病をいやす。」

と読むのであろう。

この事を本で読んで知った高校生時代の私は周りにいる親類医師
の姿とのギャップを感じた。医師をしている叔父達が「国をいやす」
なんてまったくイメージがわかなかったのである。とにかく手術と外
来を忙しくやっていた叔父たちである。おまけに私もまだ高校生だ
った。イメージが湧かないのは当然のことである。しかし、この言葉
がなんとなく正しいと感じた。

この『小品方』は中国の律令制度のもとで医学生の教科書だった
わけであり、中国は官僚(宦官)によって政治経済がコントロール
されていた。

当然、官僚による教育としては自分達官僚(宦官)のほうがお前達
医者よりも優秀であると教育(洗脳)したかったのだろう。
また、逆にロジカルに物事を考える医学生の中から政治経済を志す
若者をスカウトしたいという気持ちもあったかも知れない。

いずれにしても額面どおりに受け取れば医師の資質は実は
政治家に近いものがあるのかも知れないことを考えさせられ
る。確かに命とは何か?幸福とは何か?と考えると健康とか
生活の安定とか政治的な問題にも考えは及ぶ。しかし一方
で、医師という仕事は職人の仕事であり、人間の体に関する
膨大な知識と経験、技術に裏打ちされた専門的なものだ。
それはきわめて個人的な資質(記憶力や手先の器用さなど)
に関わる仕事で政治思想や経済学とは一見乖離しているもの
だと考えられているかもしれない。

一方私は自分が学生時代に志したのは竜馬のような革命家で
あり、ニーチェのような思想家であった。しかし、どこかで医師と
いう仕事に政治家のような思想家のような天下国家を語り考える
人間というイメージが重なっていたのかもしれない。

私が思想に関心を持ったのは「人間が何のために生きて」
いて、「何が幸福なのか?」という普遍的な問題に真剣に
悩んでいたからであろう。誤解を恐れずに言うと私の高校
時代は生きる目的を探求する日々でもあった。「人生の意味
、幸福の意味、人間とは何か?何のために生きるのか?」
解決しない疑問に悩む青年時代ともいえた。

その問題は解決しない問題だし、普段生活の中でふと
われに返ったときに思い出す程度のものでしかないが、
しかし、医師として仕事をする中で同様の問題を考えることがある。

何のために治療するのか?

病気を治すのか?

その臓器以外の関連部分も治療することによって
その人間にまでも関わって治していくのか?

正しい生活習慣を教えて導いてゆくのか?
それとも薬で検査の数値だけを正常化するのか?

上医は国を医し、中医は民を医し、下医は病を医す

 

それにしてもこの言葉は重い。「下医は病を治す。」

下医というのは簡単にいうと、病気を治すだけのお医者さん
であろう。それが悪いのか?というと悪くなんてない。医師
の必要条件である。ただ、この必要条件しか持ってない
医師が居るのも事実である。必要な条件を満たすだけでも
大変だという側面もある。一生勉強というが確かに新しい薬、
新しい治療法の開発はそれを理解して臨床応用するだけ
でも勉強を要するのだ。

しかし、一方で単なるサイエンスマニアのような医師を生
み出したことも事実である。病気のメカニズムと薬につい
てはやたら詳しいが、その患者の人間性についてはあま
り興味がない。その患者の苦しさや病気によって命が失
われる悲しみには興味がない。

末期がんの病状には興味があるが、その患者自体の
人間には興味がない。

末期がんであって保険診療で効果がなくなると平気で、
「もう治療法がありません、家でゆっくり家族と過ごして
下さい。」と言ったりする。

今癌難民を生み出している医師たちはまさにこの
「下医」であろう。

私は統合医療を掲げている以上は人間を総合的に
見てゆきたいと思っている。癌を治すことは難しいと
しても、出来る限りの治療方法は探究してゆくべき
だろうし、簡単に患者に絶望を与えてはならないと
思っている。絶望からは諦めしか生まれないし、そ
こからは強い免疫にも期待は出来ないからである。

統合医療はその点立派な考え方をしている。

「患者の病気を治すのではない、患者自身を治すのである。」

「どうして病気になったのかを追求し、それも含めて患者の
生活習慣も直してゆくのが大切である」

こういう医師が「中医」であろう。最低限このような「中医」
になりたいものであるし、このような親身になってくれる、
病気にならない生き方を教えてくれる医師にかかりたい
ものである。

では最後の「上医」とはどんな医師であろうか?

医師が政治家に成ると言うわけではないだろうから、
ここは「医師として思想を持った人」を意味している
ものだと思われる。

先日ビタミンC製剤の製造販売がアメリカで中止
されたということを報告したが、これははっきり言うと
患者さんのために存在するビタミンCが製薬メーカー
に巨大な利益を上げている抗がん剤の邪魔になって
いるということであろう。

だからFDAの中の製薬メーカーよりの人間がビタミンC
を抹殺したということだろう。政治や法律の権力を持つ
とそこには「金」という利権が必ず食い込んでくる。
人間なら誰しもこういった誘惑に勝てるというわけではない。

世の中には多くの「下医」がいて、利益追求の製薬
メーカーからの便宜によって利益を得ている。
彼らには患者さんのためという思想がないために臓器
が一時的にでも正常に近づいたら「治療効果があった」
と考える。そのために他の臓器が決定的なダメージを
受けてもそこは無視する。そして、その治療が効かなく
なれば患者を病院から追い出し、「あなたには治療する
方法がない」とむげに絶望に追い込んでゆくのである。
これこそまさしく1500年前に中国の書物に書かれて
いた「下医」だろう。

「上医」とは思想をもった医師だと書いた。つまりこの
ような現実の構造を理解していなければならないと思う。
つまり「上医」の持つ思想「患者を治す治療」
「全人的治療」という統合的な医療とそれに敵対する
思想原理「臓器の治療がすべての治療」「薬の売人と
しての医療」「利益のための治療」の違いを考えておく
必要がある。

1500年前の中国にも、薬を売りつけて儲けばかりを
考えていた商人と官僚、その取り巻きの医師連中が
いたのであろう。

当時の官僚がみな正しいことだけしていたわけではないだろう。中には率先して薬を売りつけて袖の下にせっせと金目のものを振り込ませていた官僚も多くいたはずだ。今でも中国でビジネスをする際には「袖の下」(賄賂)は必需品だといわれている。しかし、一方で高邁な理想を持った官僚もいたということだろう。

現実の利益と理想の戦いはまさしく現代にも通じる構造である。