記憶は遺伝するのか

 

福岡伸一先生のエッセイより引用した。

記憶の遺伝でも、実際の現世での自分自身の経験でも我々の体の神経細胞や脳細胞は大きな影響を受ける。トラウマを受けた人の脳細胞はストレスホルモンの過剰分泌乙によって障害されている。ネガテイブな思考を繰り返すと人の免疫細胞はメチル化を起こし癌促進遺伝子が発現しやすくなるなどである。

我々の体は心と結びついており、この結びつきを良いほうに利用しないといけない。悪いほうに働くと日常生活がうまく送れないようになり、闘争と逃走がバランスよくできなくなる。一般にもアドレナリンジャンキーという言葉があるが、アドレナリンの分泌をコントロールできないようになると体調不良になる。また、犯罪者の多くはアドレナリンの分泌やコントロール異常が起きていると言ってもいいだろう。

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http://www.sotokoto.net/jp/essay/?id=100

 

ある特別な匂い(この実験の場合はサクラの花びらのよい香り)がすると、しばらくして床にびりっと電流が流れる。こんな仕掛けでマウスを何度か訓練すると、すぐに2つの事象の関連性を学習して、マウスはサクラの香りがしただけで、電気ショックにそなえて身をすくめる動作をするようになる。これが条件づけである。

 

米国エモリー大学の研究チームは、このような条件づけをしたマウスの子孫に、この学習の成果が遺伝するかどうかを調べた。これまでの生物学の常識では、そんなバカな実験はするまでもないこと、とされていた。学習による成果、つまり生まれたあと後天的に身につけた行動は、次の世代ではいったんオールクリアされたゼロにもどる。つまり獲得形質は遺伝しない、というのが生物学のセオリーだった。

 

かつて獲得形質の遺伝の可能性を考えた学者ラマルクの説は、いまでは完膚なきまでに否定されていた。そもそも獲得形質とは、脳の中に作り出された新しい神経回路や、鍛えられた筋肉、食べ過ぎで増えた脂肪など、すべて身体を構成する細胞──これを体細胞と呼ぶ──で起こることで、子孫に受け渡される生殖細胞(精子や卵子)には、体細胞の変化やその情報が伝わることはないし、伝える機構も存在しないと考えられていたのだ。

 

ところがである。マウスの子ども、あるいはまたその子ども(孫)を調べたところ、条件づけされた性質が遺伝していたのだ。もちろんサクラの花びらの香りをかいだら、電気ショックにそなえて身をすくめるという条件反射そのものが遺伝していたわけではない。つまりサクラの香りを先天的に怖がることはなかった。 このマウスに同じ条件づけ、つまりサクラの花びらの香りがすると電気ショックがくるという訓練をほどこす。すると、親の世代にその恐怖を学習していた子どもほど、より敏感になっていたのだ。すなわち、ずっと低い濃度のサクラの香りに対しても、すぐにこれにおびえるようになった。

 

いったい何が起きたと考えればよいのだろうか。条件づけによって形成された神経回路、つまり、鼻の嗅覚レセプターによる香りの検出脳がそれをサクラの匂いと識別恐怖体験との照合電気ショックを予期して身構える体勢をとる、という回路そのものが遺伝したわけではない。学習や経験によって形成された記憶は、その一世代かぎりのものであり、次の世代には遺伝子しない。世代を超えて遺伝したと考えられるのは、このような条件づけがより容易に形成されるための「下地」である。 親の世代で体験したことは、サクラの香りが、危機の予知のために重要な手がかりになる、ということだった。だから、子孫は、サクラの香りに対してより鋭敏に反応することができれば、より有利に危険を回避し、生き残るチャンスが増えることになる。サクラの香りに対してより敏感になるためにはどんな準備が必要だろうか。サクラの香りを感知する嗅覚レセプターの数を増やす。あるいはここから脳に伸びる嗅覚神経細胞の数を増やす。その間にあるシナプスの連結を強化する。そのような「下地」を用意しておけばよい。

 

研究者たちは、実際にDNAを調べてみた。この実験の巧みなところは、サクラの香りを条件に選んだことだった。匂いレセプターはマウスの場合、数百種類もあり、どの匂いにどのレセプターが関与しているか、ほとんどわかっていない。しかし、サクラの香り(正確にはアセトフェノンという化学物質)に対する嗅覚レセプターがきちんと特定されていたのである。

 

親マウスから子マウス、孫マウスへと伝達される精子のDNAの嗅覚レセプター遺伝子を解析した結果、レセプター遺伝子のDNA配列(遺伝暗号)自体には変化はなかった。つまり突然変異はなかった。しかしエピジェネティックな差異が見られたのである。エピジェネティックスについては、新しい生命科学のトレンドとしてこのコラムでも取りあげてきた。DNA自体ではなく、DNAの働き方を調節する情報が隠れた形でDNAに書き込まれていることがわかってきた。それがエピジェネティックスである。

 

今、DNAを音楽の楽譜のようなものだとしよう。一音一音の音符の音程と長さがDNAの遺伝情報である。音符が書き換えられること、つまり突然変異が起こると、音程と響く長さが狂って、曲が大きく変わってしまう。しかし、音程と長さを変えないまま、曲に変化をつけるやり方がある。五線譜の欄外に、ゆっくり、大きく、元気よく、生き生きと、などというように、曲想や演奏のやり方を指定する注意書きが五線譜の欄外に書き込まれる。逆に、静かに、ゆっくり、だんだん弱く、などといった指定もできる。これとまったく同じような注意書きにあたるものが、DNAにも多々存在することがわかってきたのだ。そのひとつが、メチレーションという小さな化学的修飾がDNAに施されること。DNAにメチレーションがたくさん入っていると、一般的に遺伝子の活性が抑制される。メチレーションが抜けていると遺伝子が活性化されやすくなる。

 

メチレーションの多寡はその生物がどのような環境で生きたか、どんな体験を経たかで変化すると考えられる。 実際、サクラの香りで恐怖体験を条件づけされたマウスの生殖細胞の嗅覚レセプター遺伝子で、メチレーションが少なくなっており、より活性化されやすくなるような変化が起こっていたのだ。生物は環境とのやり取りを通じて、よりよく生き抜くための適応的な形質を獲得する。これが次の世代にまったく生かされないのはあまりにももったいない。生物は、次の世代の自由度を拘束しない範囲で、しかし獲得形質を有効利用できるように、エピジェネティックスのレベルで情報を伝達する仕組みを編み出していたのだ。獲得形質の遺伝について、新しい光が当たることになった。